巡行汴渠诏

自汴梁决败,

六十余岁,

加顷年以来,

雨水不时,

汴流东侵,

日月益甚,

水门故处,

皆在河中,

漭瀁广溢,

莫测圻岸,

荡荡极望,

不知纲纪。

今兖豫之人,

多被水患,

乃云县官不先人急,

好兴它役。

又或以为河流入汴,

幽冀蒙利,

故曰左堤强则右堤伤,

左右俱强则下方伤,

宜任水势所之,

使人随高而外,

公家息壅塞之费,

百姓无陷溺之患。

议者不同,

南北异论,

朕不知所从,

久而不决。

今既筑堤理渠,

绝水立门,

河汴分流,

复其旧迹,

陶丘之北,

渐就壤坟,

故荐嘉玉洁牲以礼河神东过洛漼汭,

叹禹之绩。

今五土之宜,

反其正色,

滨渠下田,

赋与贫人,

无令豪右得固其利,

庶继世宗瓠子之作。

来源:全後漢文 卷三